「え? 琢磨……お前も行くのか?」翔が突然声をかけてきた。「当り前だろう? 朱莉さんを1人でホテルまで帰せるわけないだろう?」「いや……実は仕事の件で、どうしても早めに解決しなくてはならない案件があるんだが……」「だったら、お前1人でやればいいだろう? 俺はもう行かせて貰うからな。さ、行こう。朱莉さん」琢磨は朱莉を促して、連れて行こうとした矢先、翔が強く言った。「駄目だ! 琢磨、お前はここに残れ! お前と俺の2人で共有していた仕事の件なんだよ! だからお前は俺と一緒にここに残って仕事をして貰う。これは……業務命令だ」その言葉に琢磨は翔をキッと睨み付けた。「ハッ! 業務命令……か。分かったよ」琢磨は呟くように言うと、朱莉を見た。「ごめん。朱莉さん。ホテルへは1人で帰って貰えるかい?」「ええ、大丈夫ですよ。病院の前にタクシーは止まっていましたし、1人で帰れます」そして次に朱莉は明日香と翔に挨拶した。「すみません。それでは失礼致します。又明日伺いますね」そして朱莉は頭を下げると、静かに病室を後にした——**** 明日香の洗濯物という荷物を抱えた朱莉は病院の前でタクシーを拾い、行き先を告げた。タクシーは約20分程でホテルに到着したところで、朱莉は運転手に声をかけた。「あの、10分程で戻って来れると思いますので、すみませんがまだここで待っていていただけますか?」「ええ、大丈夫ですよ」「すみません。よろしくお願いします」朱莉は頭を下げると、明日香のクリーニングを持って足早にホテルの中へと入って行った。フロントで、急ぎでクリーニングを仕上げて欲しいと朱莉は頼むと、すぐにホテルを出た。ホテルの前には先程朱莉が乗って来たタクシーが待っていてくれている。「すみません、お待たせしました」「いえ。お客様。全然待っていませんから大丈夫ですよ。それで、どちら迄行かれますか?」「あの、国際通りまでお願いします」「国際通りの何処で降ろせばよろしいですか?」「何処……う~ん……何処……?」朱莉は考え込んでしまった。何せ沖縄に来るのも初めてだし、国際通りと言うのも初めて知ったのだ。するとタクシードライバーが笑った。「それでは国際通り入口までお乗せしましょうかね?」「はい、それでお願いします」 タクシーは約15分程で国際通り入口へ辿り着いた
「変だな……? 通話中なんて・・」駐車場に止めた車の側で朱莉に電話を掛けた琢磨は首を傾げた。琢磨が掛けた番号は朱莉が個人で使用しているスマホで、翔との連絡用の番号では無い。今迄朱莉に電話を掛けて通話中だった事は一度も無かった。(ひょっとしてお母さんと話しているのだろうか……? いや、まさかそれとも……?)嫌な予感がして、一瞬琢磨の脳裏に京極の姿が頭をよぎった。(まさか……電話の相手は京極なんじゃ……)嫌な胸騒ぎが起こり始めていた。その胸騒ぎの理由を琢磨は心の中で弁明していた。(違う、俺が京極に嫌な気持ちを抱くのは、あいつが朱莉さんに好意を寄せているからじゃない。何故か分からないが……あの男が危険な人物にしか思えないからだ。朱莉さんに好意があるように思わせて、本当は別の目的があって朱莉さんに近付いている可能性だってあるんだし……)琢磨はスマホを握りしめると再度、朱莉に電話を掛けた——**** その今から10分ほど前――ようやく全ての買い物を終えた朱莉は近くのカフェで涼みながらアイス・カフェオレを飲んでいた。すると朱莉の個人用スマホに着信が入ってきた。その着信相手は……。「え? 京極さん?」朱莉は慌てて電話に出た。「はい、もしもし」『こんにちは、朱莉さん。沖縄に無事着いたんですよね?』「はい、着きました」『そうですか……僕の所に連絡が入ってこなかったので実は少し心配していたんですよ』京極に言われて朱莉はアッと思った。「も、申し訳ございません。折角搭乗ゲートまで送っていただいたのに、沖縄に着いたことを報告しなくて」『ハハハ……冗談ですよ。どうですか? 沖縄は?』「はい、お昼は京極さんに教えていただいたソーキそばを食べたんです。すごく美味しかったですよ。あと、国際通りにも行ってきました。色々なお店があって楽しい場所でした」『声がとても嬉しそうですね。良かったです、少し安心しました』「え? 安心?」『はい、朱莉さんはいつも心に大きな悩みでも抱えているのか、俯き加減でどこか寂し気で、儚げな女性に僕の目には映って見えました。でも今の声からはそんな風に思わせる所が無くて良かったです』「京極さん……」(私のこと、そんな風に見えていたんだ……)『ところで朱莉さん。今はお1人なんですか?』「はい、そうです」『そうですか、良かった
(ど、どうしよう……)朱莉はすっかりうろたえてしまった。だが、このまま黙っているわけにもいかない。「あ、あの……京極さん……」『大丈夫です。何も言わなくていいです。僕は貴女を責める気など一切ありませんし、困らせたくもありません』電話越しから京極の労わるような声が聞こえてくる。「すみません……」『謝る事なんか一切ありませんよ。僕が今電話を掛けたのは朱莉さんが無事に沖縄へ辿り着けたことを確認したくて電話を掛けただけですから』「はい。連絡せずにすみませんでした」『いいえ。僕が勝手に心配して電話を掛けただけなので気にしないで下さい。それではまた連絡入れますね。失礼します』最期は朱莉が何か言う前に電話が切れてしまった。(京極さん……どうして私に構うんですか? 私達、お互いのこと殆ど何も知らないし、私は書類上とはいえ結婚しているのに……。こんなこと、疑いたくないけど……もしかして貴方は……)そこまで朱莉が考えていた時、再度朱莉のスマホが鳴った。(まさか……また京極さんから!?)朱莉は急いで着信相手を見ると、それは琢磨からであった。「はい、もしもし……」『朱莉さん!? 何とも無かったか!?』電話に出た早々に受話器越しから琢磨の切羽詰まった声が聞こえてきた。「九条さん? どうしたんですか? 何だか随分慌てている様ですけど?」『いや……さっき電話を入れたら通話中になっていたから、もしかしてお母さんに何かあったのかと思って……』「いいえ、違いますよ。母とは電話していません」『それじゃ……京極さんとかい?』「あ……。は、はい。そうです」『また何か嫌なことでも言われたりしたのかい?』「いえ、そんなことではありませんでした」『そうか、なら……って駄目だよな。俺がこんなこと聞いたりしたら。朱莉さんのプライバシーの問題だってあるわけだし』「九条さん……」朱莉は琢磨に何と声をかければ良いか分からなかった。『朱莉さん。今何処にいるんだい? 迎えに行くよ。それに昨日は誕生日だっただろ? 1日遅れたけど何かお祝いさせてもらえないかな? 食事でも一緒にどうだい?』「あ、あの……・お気持ちはとても嬉しいですが、九条さん、お疲れではないですか? 明後日には東京に戻らなければならないのに。なので私のことは別に……」言いかけた時、琢磨の低い声が聞こえて来
「ごめん、待ったかな。朱莉さん」15分程経過して琢磨がカフェで待つ朱莉の前に現れた。「いいえ、それ程でもありませんよ。意外と早かったですね」「そうだね。少し近道を発見したからさ」「九条さん。折角ですから何か飲まれて行ってはいかがですか?」「うん……そうだな。それじゃちょっと何かメニュー見てくるよ」「はい、行ってらっしゃい」朱莉の言葉に、一瞬琢磨の顔が赤く染まった。(え……?)しかし、次の瞬間。いつもと変わらぬ様子の琢磨がいた。「それじゃ行ってくるよ」琢磨は朱莉に声をかけ、コーヒーを買いに向かった。その後姿を朱莉は首を傾げながら見守り、ポツリと呟いた。「今の……気のせいだったのかな?」 それから数分で琢磨はアイス・コーヒーを持って戻り、朱莉の向かい側に座ると尋ねた。「朱莉さん。明日香ちゃんの買い物全部終わらせられたかい?」「はい、何とか揃える事が出来ました。これで安心出来ました」「ごめん。明日香ちゃんに色々用事を言いつけられたのに、協力してあげることが出来なくて」「何言ってるんですか、九条さんは翔さんの秘書なんですから、私のお手伝いなんてとんでもないですよ。私のことなら気にしないで、どうぞ翔先輩の力になってあげて下さい」朱莉は慌てて返事をした。「確かに俺は翔の秘書だけど……一人の人間として朱莉さんが心配なんだ」「私は本当に感謝していますよ。翔先輩のこととは関係なく、いつも気にかけていただいてるし、今回の沖縄行きの件にしても航空券の手配から、ホテルの予約。そのうえあんな立派なマンションまで探していただいたのですから。こんなに誰かに親切にしていただいたのは高校生の時以来です。本当にありがとうございます」「朱莉さん……」そこで琢磨は言葉を飲み込んだ。(朱莉さん、高校の時以来って……その相手は翔のことだろう?)どんなに朱莉を手助けしても、結局のところ朱莉にとっての一番は翔だと言う事実に改めて琢磨は悲しい気持ちになるのだった。(だが……朱莉さんの負担を少しでも減らしてあげることが出来れば、それが自分の罪滅ぼしなんだ……)「ところで九条さん、どこに食事に行くか決めてあるんですか?」「まだ特には決めていないんだ。だって今夜は朱莉さんの1日遅れの誕生祝だからね、どんなものを食べたいのか聞いてから決めようかと思っていたんだ。」「
「朱莉さん……この荷物は?」「え? 明日香さんに頼まれた買い物ですけど?」それは両手に抱えてもかなりの量の買い物であった。琢磨は唇をかみしめ、両手をグッと握りしめた。(こんなに大量の品を小柄な朱莉さんに暑い中、一人で買わせるなんて……!)琢磨の視線の先に自分が買ってきた品物があることに気づいた朱莉は慌てて弁明した。「あ、あの、それ程重くは無かったので、本当に大丈夫ですから」買い物袋を手に取ろうすると、それらを全て琢磨が持ってしまった。「あ……」(重くは無かったなんて言っていたけど、男の俺からみても中々重いじゃないか……。ん?)そのとき、琢磨は朱莉の足元に小さな折り畳み式のキャリーカートが置かれていることに気が付いた。「朱莉さん、これは何だい?」「実は、やっぱり重くて、その、キャリーカートを買ったんです。でもお陰で楽に運べました。この先きっとあれば重宝すると思いますし」朱莉は自分が下手な言い訳をしているような気分になって、俯く。「そうか……ならこれに入れて運ぼう」琢磨は折り畳んであったキャリーカートを広げた。「まずは先に明日香ちゃんの病院へ行こう」「え? な、何を言ってるんですか?」「これだけ多くの荷物、明日クリーニングされた洗濯物と一緒に運ぶのは大変だ。今日これを明日香ちゃっんの病室に届けてしまえば、明日は荷物が少なくて済むから」その口調はいつもより鋭く、有無を言わさないような雰囲気があった。「わ、分かりました」「それじゃすぐに行こう」琢磨はキャリーカートを引くと、声をかけてきた。「はい……」**** その後の琢磨は終始不機嫌だった。駐車場に向かう時も無言だったし、病院へ向かう車の中でも何やら考え事でもしているのかずっと無言を通していた。朱莉は何だか居心地が悪かった。これで車内のカーステレオから沖縄特有の歌が流れていなければ、息ぐるしい空間であったのは間違い無かった。 やがて琢磨の車は明日香が入院している病院に到着した。琢磨は病院の正面に横付けするとようやく朱莉に話しかけてきた。「朱莉さん。荷物を降ろすから先に病院のロビーで待っていてもらえるかな? 俺は車を駐車場に停めてくるから」「はい、分かりました」朱莉が車を降り、明日香の買い物が入ったキャリーカートを降ろそうとすると、琢磨が素早く運転席から降りてきた。
—―コンコン病室のドアがノックされた。「あら、誰かしらね? 看護師さんかしら?」明日香がPCから目を上げた。「うん? でもさっき来たばかりだしな……」すると外から声が聞こえた。「俺だ、琢磨だ」「何だ、琢磨か。中に入れよ」翔に言われて琢磨はドアを開けて中へ入って来たのだが……。「な、何だ? 琢磨。お前随分機嫌が悪そうだが……ひょっとして朱莉さんと何かあったのか?」「あら、そうなの? 琢磨」明日香は何処となく嬉しそうな笑みを浮かべて琢磨を見る。「違う! そんなんじゃない! 明日香ちゃんに頼まれた買い物を朱莉さんが揃えたから今それを届けに来ただけだ!」琢磨は乱暴に言うと、持って来たキャリーカートを2人の前に見せた。「こ、これは……」翔が言い淀んだ。「あら。よくこんなに沢山買い揃える事が出来たわね。別に入院期間中に揃えてくれなくても良かったのに」明日香の言葉に琢磨はイラついた様子で反論した。「明日香ちゃん、朱莉さんに頼む時そんな言い方はしていなかったぞ?」「あら、そうだったかしら?」「しかし……明日香……。こんなに沢山買い物を朱莉さんに頼んでいたのか?」翔の言葉に琢磨は目を見開いた。「何だって? おい、翔。お前は明日香ちゃんが朱莉さんにどれだけ買い物を頼んでいたのか知らなかったのか!?」「あ、ああ……知っていたらお前を買い物に付き合わせていたよ。さっきの仕事は今夜中に終わらせればいいだけの話だし……」そんな2人のやり取りを明日香は知らんぷりしてPCを見ている。「明日香ちゃん、まるで他人事のような態度を取っているけど買い物の中身を確認しなくていいのか?」怒りを抑えた口調で琢磨が尋ねる。「ええ、別に必要無いわ」「「何だって?」」琢磨と翔が声を揃えた。「だって、適当に雑誌で見て選んだだけですもの。いちいち自分が何を買い物リストに書いたのかも覚えていないわ」「な、何だって……?」琢磨は明日香を睨み付けた。「何よ。そんな目で人のことを見て」「お、おい。琢磨。明日香は絶対安静の身なんだ。あんまり怯えさせるなよ。だけど少しは買い物を頼まれた朱莉さんのことを考えてあげたらどうだ? あれだけの買い物は大変だったと思うぞ?」翔が明日香に問いかけた。「そうねぇ。実際に集めるとこんなに量が多かったのね。パッケージの分で傘増し
「い、いや。だって事実そうだろう? あの京極という男のせいじゃないのか? 大体最近のお前少しおかしいぞ? 以前のお前ならもっと冷静沈着な男だったじゃないか」翔の言葉は、増々琢磨を苛立たせた。「そうかい。それは誉め言葉だと受け取っておくよ。ようするに今の俺は以前より人間味が出て来たってことだろう? だがな、これだけは言っておく。これ以上お前達の我儘身勝手に朱莉さんを巻き込むな!沖縄までわざわざ呼びつけたんだから少しは彼女を解放してやるんだな?」琢磨が2人を交互に見ながら言うが、翔は反論した。「いや。それは出来ない。そもそも朱莉さんを沖縄に呼んだのは明日香の側にいて貰う為だ。何かあった時、逐一朱莉さんには明日香の様子を報告してもらいたいし、身の回りの世話だって……」「だったら家政婦でも何でも雇えばいいだろう?」「いずれはそうするつもりだ。口の堅い家政婦が見つかればそれでいい。だけどそれまでは朱莉さんに明日香を頼むしか無いんだよ。そうだろう、明日香?」「う~ん……。でもあまり拘束したら朱莉さん気の毒じゃないかしら? 程々で私は構わないけど?」「ほ、程々って……それを誰に判断させるんだよ? 言っておくが朱莉さんにはそんな判断出来っこないからな? とにかく翔、それに明日香ちゃん! 朱莉さんをこき使うのはやめろ!」琢磨は朱莉を守る為に必死だった。しかし……。「いや……そもそも朱莉さんにはそれなりの報酬を支払ってるんだ。だからこれから先も少々の無理は聞いて貰わないと……その為の契約婚なんだからな」その時――ドサッ!!病室の外で何か物が落ちる音が聞こえた。「何だ?」琢磨は病室のドアを開けて息を飲んだ。「あ……朱莉……さん……」(そんな……嘘だろう? 一体いつから朱莉さんは俺達の話を聞いていたんだ?)「あ、あの……私……まだ頼まれた買い物を別に自分の鞄に入れておいて……そ、それを届けに……」朱莉は眼を見開いて、病室にいる翔と明日香の姿を見た。その姿は…まるで怯えているようだった。「あ、朱莉さん……今のは……!」流石にばつが悪いと思ったのか、翔が声をかけた時。「す、すみませんでした。これ……お願いします!」朱莉は落してしまった包みを慌てて拾い上げ、琢磨に押し付けるように渡すと逃げるように立ち去って行く。「朱莉さん!」琢磨の呼びかけに
琢磨と朱莉は「めんそーれ」と言う沖縄料理を出す居酒屋に来ていた。「「……」」2人はお座敷席でお互い無言で向かい合って座り、注文を取りに来た若い男性店員もバツが悪そうに注文待ちをしている。「……朱莉さん。注文…・・・どうする?」琢磨がメニューを差し出しながら朱莉に勧めた。「そ……。ではグレープフルーツサワーと……このタコライスでお願いします」「うん。そうだね。このタコライスは沖縄のソウルフードと言われてるからね。それじゃ、俺は生ビールと海ぶどうの三杯酢……それとゴーヤチャンプルー。あとラフテーをお願いします」「はい、かしこまりしました」店員はほっとしたようにメニューを取ると、そそくさと立ち去って行った。「九条さん、今のメニュー、全部沖縄料理ですか? ゴーヤチャンプルーは聞いたことがありますけど後は全部初耳です」「そうかい? それじゃメニューが届いたら一緒に食べてみようよ。気に入ってもらえるといいけどね」ようやく朱莉の方から話しかけてくれたので、琢磨は笑みを浮かべた。 あの後、朱莉は琢磨に縋りついて20分近く声も出さずにすすり泣いていた。その様子があまりにも哀れで、琢磨は翔と明日香に激しい怒りを感じずにはいられなかった。(くそっ……! 朱莉さんをあんなに泣かして……最近の明日香ちゃんは以前に比べて少しはマシになってきたが、そこへいくと翔のあの態度は一体何なんだ!? 絶対にいずれ朱莉さんに謝罪させてやる!)先程のことを思い返していると朱莉が話しかけてきた。「九条さん……」「どうしたんだい?」琢磨は出来るだけ優しい声で朱莉に返事をした。せめて翔が朱莉に親切に出来ないなら、自分だけでも朱莉に優しく接してあげようと思ったからだ。「いつもいつも……九条さんの前で子供の様に泣いたりして呆れてしまいますよね? 本当にすみません。……自分がこんなに泣き虫だったなんて気付きませんでした。本当にお恥ずかしい限りです」朱莉は頭を下げた。「朱莉さん、それは……」(それは翔のことが好きだからだろう? 好きな相手に冷たい言葉を投げつけられるから、それだけ辛く悲しく感じてしまうんじゃないのか?)しかし、琢磨はその台詞を口にすることなく言った。「別に気にすることはないよ。いや、むしろ他の男の前で泣かれるくらいなら……俺の前でだけ泣いてくれた方が嬉しいか
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると